要約

  • 1993年、レソト国立大学には小規模なUUCPメール用ダイヤルアップがあった。完全なインターネット接続とは別のサービスだ。
  • 1996年12月、大学ホストが報告値9.6Kの陸上回線でオンラインになった一方、学内への接続提供は未完成だった。
  • 1999年にはマセルのカフェが時間制でアクセスを提供した。回線、学内網、公共の利用場所は同時には稼働していない。

この記録で最も役立つ日付は、国全体の「インターネット開通日」ではない。1993年5月12日、ネットワークの告知は、ロマにあるレソト国立大学(NUL)にUUCPのダイヤルアップ回線が設置されたと伝えた。PCはUUPC、PMail、Snewsを動かしていた。発信者は、大規模なマルチユーザー環境ではないと注意を添えている。これはメールサービスの具体的な説明であり、当時レソトが完全なインターネットに接続していた証拠ではない。

3年後も、その違いは明確だった。1996年3月、NULのコンピューターサービス職員は、レソトにはまだ完全なインターネット接続がないと書いた。大学の管理部門や関係者を説得するため、計画書を作ろうとしていた。予定は条件付きだった。計画が進めば、3月末か4月初めに接続できるかもしれないという。計画と前向きな日程は、稼働中の回線とは違う。

12月16日、Mike Jensenは thaba.nul.ls がようやくオンラインになったと報告した。ロマからブルームフォンテーンまでの陸上回線で、報告された速度は9.6Kだった。ネームサーバー同士がまだ同期していない可能性も記している。この一文は、接続が立ち上がる現場を示す。ホストが到達可能になっても、名前解決を支える記録がすべて揃っているとは限らない。

2日後、NULのコンピューターサービス部門は学内の状況を説明した。暫定のICL 486でLinuxを稼働させる一方、IBMメールサーバーではUUCPが続いていた。キャンパスネットワークはなかった。職員は14.4KモデムをCisco 2511につなぎ、キャンパス全域からダイヤルアップできるようにしたかったが、その仕組みはまだ動いていなかった。簡素なホームページは存在したものの、学内へのアクセス拡大はこれからだった。国境を越える回線、オンラインホスト、学内への配信、学生が実際に接続できることは、四つの別の事柄だった。

後年のNSRC事業者記録には、ロマ―ブルームフォンテーン間の64K陸上回線と首都圏のサービス範囲が記されている。記録は1996年12月に作成され、1998年8月に更新された。報告された9.6Kがいつ64Kになったのか、どのような変更があったのか、二つの記録が同じサービスの同じ地点を測っているのかは示されていない。正確な年表では、同時代の9.6K報告と後年の64Kスナップショットを並べ、推測で増速日を補わない。

利用者側の状況はさらに別の層にあった。1999年11月のAfricanewsは、マセルにはインターネットカフェが一軒あり、コンピューターは5台だったと報じた。30分の接続はR10、メールボックスは月10Rと記載された。店主は地元客が全顧客の15~20%と推定し、報道はマセルに来るたび利用する教師と、PCと接続費は高すぎると話す商店主を紹介した。これは一つの店の利用状況であり、国全体の利用者調査ではない。

レソトの初期インターネット史は、意味のある複数のサービスとして読むべきだ。完全なIP接続より先にメールがあり、キャンパス網より先に大学の国際回線があり、家庭への普及を推定する前に有料の公共接続場所があった。「1996年に国が接続した」と一括すれば、どの機器がオンラインで、誰が到達でき、何が未整備だったのかが見えなくなる。

出典