要約

  • .hn の管理をめぐる対立で、HONDUNet の作業は1995年に中断した。COHCIT は hondunet.net を使い、計画の継続を図った。
  • 当時のメールは接続日を6月1日と告知し、Ignacio Siles の後年の研究は6月6日とする。1996年1月の traceroute は HONDUTEL の一台のホストまでの経路を示すが、全国的な接続は証明しない。

同じ衛星回線に二つの日付

1995年6月1日、DEVEL-L メーリングリストに転送されたメッセージは、ホンジュラスがフロリダ州 Homestead への衛星回線を通じてインターネットに接続したと発表した。これは、学術機関と研究機関を結ぶ全国ネットワーク HONDUNet の第一段階だという。米州機構(OAS)の RedHUCyT を率いた Saul Hahn は、ホンジュラスの機関、国営通信事業者 HONDUTEL、コスタリカの研究者、米国 National Science Foundation、Sprint に謝意を示した。これは同時代の告知であり、疎通試験の記録ではない。保存された告知。

歴史家 Ignacio Siles は、接続が成立した日を6月6日としている。その記述では、国立自治大学と COHCIT への接続作業に加え、古い HONDUTEL 機器を必要なルーターにつなぐため、技術者が夜を徹して配線を直した。二つの日付には五日の差がある。告知と実稼働の違いかもしれないが、手元の資料はそれを確定しない。両方を記録しておく必要がある。Siles の研究書は、聞き取りとプロジェクト文書をもとに経緯を再構成している。

日付の差は短い。一方、機関間の対立は事業を止めた。HONDUNet は複数の組織をつなぐ計画だった。衛星経路がその役割を担う前に、国別ドメイン .hn を誰が管理すべきかで関係者の意見が割れた。

最初の大学だけではなかった

接続に向けた動きは1993年、国立自治大学の Inter-Tegus グループから始まった。Siles によると、国内の接続に関心を持つ約40人が月に二度ほど集まっていた。当初の案は大学の回線だけにとどまらない。キャンパス内に通信区域を設け、衛星でつなぎ、地元企業が機器を持ち込んでサービスを提供できるようにする構想だった。これが HONDUNet へと発展し、ホンジュラス科学技術評議会(COHCIT)が RedHUCyT の支援を受けて調整した。

Saul Hahn は INET ’95 の発表で、HONDUNet は承認済みだがまだ実施段階にあると報告した。第一段階の対象は六機関だった。国立自治大学、UNITEC、Francisco Morazán 教育大学、農業学校 El Zamorano、教育省、COHCITである。PanAmSat の上り回線から、米国 National Science Foundation の Homestead ノードへ接続する計画だった。RedHUCyT は初期予算4万ドルを承認し、次の段階では San Pedro Sula と La Ceiba への拡張が検討された。これは計画を示す資料であり、六機関の回線がすべて稼働した証明ではない。INET ’95 発表資料。

.hn はすでに登録されていた。IANA の現在の記録には登録日が1993年4月16日とあり、管理者は現在の Red de Desarrollo Sostenible Honduras となっている。同団体の沿革は、前身の SDNP が同日から NIC HN を管理し、UUCP で国内初の電子メールを提供したとしている。電話回線経由のメールは、計画された衛星 IP 回線より先のサービスだったが、同じ接続ではない。IANA の記録とRDS-HN の沿革は、異なる組織の立場からこの経緯を記録している。

名前をめぐる対立が遅れを生んだ

Siles の記述によると、機材が1995年初めに到着した後、HONDUNet の関係者は .hn の管理者変更を求めた。学術ネットワークは複数の大学や政府機関を含み、ドメインの管理に関心を持つ組織をより広く代表している、国連の計画は現地組織ではない、SDN と HONDUTEL の密接な関係は管理者の独立性に疑問を生む、というのが主な理由だった。

SDN は反対の立場を取った。最初の割り当ては IANA の規則に違反しておらず、維持されるべきだと主張した。利用できる資料は、どちらの主張が法的に正しいかを裁定していない。また、衛星回線を開通する技術要件として .hn 管理者の変更が必要だったとも示していない。争点は国名を表すドメインに伴う権限と、管理者がどの機関を代表するかだった。

プロジェクトは中断した。COHCIT は RedHUCyT との接続作業を続けるため、hondunet.net を選んだ。5月には訪問技術者が COHCIT と大学を接続し、現地スタッフに運用を教えた。ただし HONDUTEL の機器は古く、必要なルーターにつなぎにくかった。Siles は、開通式の前夜に Roger Brenes がケーブルの組み合わせを試し、はんだ付けして接続を整えたと記す。

別の名前を使うことで、.hn の対立を決着させずに事業を進められた。これは .hn の移管ではない。6月の OAS 資料はなお実施中の計画として HONDUNet を記し、同月1日のメールは接続を発表している。両資料はプロセスの異なる段階を示し、予定された全機関がすでに到達可能だったと証明するものではない。

1月の経路記録が示す範囲

1996年1月8日、ロンドンの Imperial College の技術者が miraf-server3.hondutel.hn(206.48.104.142)へ traceroute を行った。記録上の経路は英国の学術ネットワーク JANET、米国のネットワークを経て、sl-hondutel-1-S0-64k という SprintLink ルーターの先でホストに到達している。National Science Research Center(NSRC)がこのメールを保存した。HONDUTEL 名義の機器が国外から応答し、最終手前の事業者側の経路に 64K の表示があったという、具体的な一例である。NSRC の記録。

しかし、一つの traceroute は全国の接続状況を描かない。通常の速度や信頼性、大学ごとの接続、家庭への提供は分からない。確認できるのは1996年1月に HONDUTEL の一台へ外部から到達する経路が存在し、同時に HONDUNet が hondunet.net も用いていたことだ。

Siles は1996年のサービス主体として HONDUNet、HONDUTEL、Sustainable Development Network、IBM(GBNet 経由)を挙げる。ホンジュラスの初期インターネットは、他の地域事例より分散していたという。ここでいう分散は複数の機関がサービスに取り組んでいたことを指し、相互に通信できない別々のインターネットを意味しない。各サービスの利用者数や到達範囲は資料から分からない。

登録管理と経路は別の仕事

衛星経路を動かすには機材、国際回線、ルーター、そしてそれらをつなぐ技術者が要る。国別ドメインには、その名前を利用したい機関から認められる管理者が必要になる。一方の調整だけで、他方の問題まで解決するわけではない。

Heng Lu の Note 70「The Registry Continuity Fallacy」は歴史資料ではなく、ここでは編集上の問いとして使う。登録機関の権限が争われるとき、何の継続が必要なのか。ホンジュラスでは、COHCIT が hondunet.net でプロジェクトを継続し、.hn は既存の管理体制に残ったことが資料から読み取れる。別の管理者なら何が変わったか、どちらの案が利用者の利益になったかは分からない。

確認できる範囲は狭いが明確だ。1993年の登録日、機関ネットワークの計画、.hn をめぐる争い、1995年の二つの接続日、代替ドメイン、そして1996年1月に HONDUTEL の一台へ届いた経路である。ホンジュラスの接続は、全員が同意した単一の入口から始まったのではない。経路は複数の組織が築き、その連合が使う名前はガバナンス上の争点として残った。

出典