Summary

  • 1996年6月の記録によると、ガイアナ大学のCUNETはDOS版WaffleのBBSを使い、UUCPでプエルトリコ大学とメールを交換していた。
  • 報告者は利用者を約70人と見積もり、1995年1月以降はおおむね安定していたと述べた一方、少数の停止、機材不足、大学負担の電話料金、教員による無償の保守にも触れている。

1996年のガイアナで「インターネットサービス」と呼ばれたものには、明確な範囲があった。大学のBBSであり、各机に国際専用線があるという意味ではない。Andrew Manceyはガイアナ大学のCUNETを、DOS版WaffleでBBSとメールを提供し、UUCP回線でプエルトリコ大学につなぐ仕組みとして説明した。これはシステム間でメッセージを交換する経路で、利用者ごとの常時・双方向IP接続を示す資料ではない。[S1]

この記録で目を引くのは通信速度ではない。Manceyは、1995年1月から安定して動作していたが、ハリケーン、電圧安定器の破裂、その他の小さな問題による停止が数回あったと述べる。「安定」は停止がなかったという意味ではなく、当時の担当者による運用評価だ。アーカイブには稼働率の時系列も、停止の長さや頻度も記されていない。[S1]

Manceyの推計では、1996年6月時点の利用者は約70人で、そのうち約20人は大学外だった。学外の加入者は、大学が支払う電話料金の軽減に役立っていた。このため大学のホストは単なる技術中継点ではなく、現地の電話料金と海外のUUCP相手に到達する機材を集約する場所でもあった。記録は料金表、総額、発呼時刻、費用配分式を示さず、各利用者の負担額は計算できない。[S1]

人員と機材も経路の一部だった。Manceyは機材が入手できればLinuxへ移行したいと考えていた。また、正式には物理学を教えており、他に担当者がいなかったため、メールのサポートとトラブル対応を自発的に引き受けたと記す。つまり、サービスの継続性は専任ネットワーク職として記録されていない労働にも依存していた。担当者の体制や作業頻度は分からない。[S1]

同じ更新は、関心を持つ事業者が、合理的な価格の海外データ回線を電話会社が提供するのを待っていたと述べる。1996年7月にはGT&T向けISP設計の検討があり、ダイヤルアップと専用線、初期帯域56K~256Kが挙げられた。これは計画であって、サービス開始の証拠ではない。1997年8月、ManceyはUNDP支援の持続可能な開発ネットワーク計画(SDNP)が予備発電機を待つ間、営業時間中だけ稼働していると報告した。異なる計画と制約を示す記録であり、SDNPがCUNETを引き継いだとは確認できない。[S1][S2][S4]

1996年10月、英国の観測者はgol.net.gyのホストにpingを送り、14パケット中10応答、損失率28%、応答時間811~876ミリ秒を記録した。これは一つのホストを一地点から測った一回の観測で、CUNETのメール経路の試験でも、国内全体の性能測定でもない。NSRCの1999年更新には、GT&Tの専用線を使う複数ISPと、MCIにつながるGT&Tの衛星回線が載るが、この後年のスナップショットだけでは移行の過程は分からない。[S3][S5]

資料から言えるのは限定的だが重要だ。国際メールの経路は、広い商用プロバイダー市場が記録される前から存在した一方、現地大学がゲートウェイを置き、電話料金を負担し、運用を調整していた。1996年6月のメッセージはアーカイブに残る現場報告であり、全国調査ではない。利用者数と評価は報告者の推計で、全国普及、開始日、総費用、サービスの最終的な行方を確定するものではない。

Sources