要約

  • 1996年11月の traceroute はアディスアベバの通信事業者ホストに到達した。12月の事業者記録は SprintLink 経由の 256 kb/s TCP/IP ゲートウェイを説明し、Reuters は1997年1月に一般向けサービスを報じた。
  • 三つの日付は経路、ネットワーク設計、顧客向けサービスという異なる節目を示す。国際ゲートウェイと料金も国営通信事業者の管理下に置かれた。

「最初」は一つではない

インターネット史では、複数の証拠が残る一連の変化を一つの日付で語りがちだ。エチオピアの1996〜97年の記録は、異なる節目を分けて示してくれる。11月28日には traceroute がアディスアベバの通信事業者ホストに到達した。12月25日、事業者はワシントンの SprintLink を経由するフル TCP/IP 接続を説明した。1月3日には Reuters が国内向けインターネットサービスの導入を報じた。経路の確認、ゲートウェイ構成の説明、サービス開始の報道は関連するが、同じ出来事ではない。

フル IP ゲートウェイ以前にも、エチオピアにはコンピューターネットワークがあった。1996年の新しさは電子通信そのものでも、国境を越えるメッセージ交換の始まりでもない。国営通信事業者が、TCP/IP の通信を世界のインターネットへつなぐ国内ゲートウェイを構築したことだった。

国内ゲートウェイ以前の電子メール

アディスアベバ大学ネットワーク委員会の1994年報告は、1992年に始まった取り組みを記録する。米国にいたエチオピア人のボランティア、大学職員、国連アフリカ経済委員会の PADIS サービスが参加した。当初は UUCP リンクが構想されたが、機材、人員、通信費を調べた結果、チームは FidoNet によるメッセージ交換を選んだ。1993年5月には、キャンパスの数台のコンピューターが PADIS へのダイヤルアップを通じて国外と電子メールを送受信できるようになった。1994年4月の報告によれば、大学の18学部・機関に加え、アレマヤ大学、ゴンダールとジンマの医科大学も外部メール網につながっていた。報告は、インターネットへの移行をなお今後の課題と位置づけている。

1995年5月、Lishan Adam はアディスアベバのハブが「まだ」FidoNet で動いていると記した。利用者1,700人、設置済みのサイト285か所というのも彼の推計であり、全国調査の数字ではない。それでも、利用者、電話回線、機器、組織間の協力を備えた地域運用のメッセージ網がすでに存在していたことはわかる。PADISNet も蓄積転送方式によって国外のメールと接続していた。国際電気通信連合(ITU)の2002年調査は、PADISNet が GreenNet のロンドン・ゲートウェイに毎日直接ダイヤルしていたとまとめている。メール接続は重要なアクセスだったが、後のルーティング可能な IP サービスと同じではない。

経路が見え、事業者が構成を説明する

1996年の最初の記録は、11月28日に投稿された traceroute だ。ロンドンのインペリアル・カレッジの端末から mail.telecom.net.et への経路が調べられ、名前は addisababa-server1.telecom.net.et、アドレス 196.27.22.41 に解決し、アディスアベバのホストは第16ホップに現れた。往復時間は約690ミリ秒と記録されている。ロンドンからのパケットが欧州と米国の複数ネットワークを通ってエチオピアの通信事業者ホストに届いたことを示す、印象的な記録だ。一方、国内で何人が接続できたか、一般販売が始まっていたか、通常の利用者がいつ使えたかはわからない。確認できるのは一つのホストへの経路である。

12月25日、事業者の Abebe Gashaw は Network Startup Resource Center に別の説明を送った。接続方式は TCP/IP、世界のインターネットへの回線はワシントンの SprintLink 経由、帯域は256 kb/s。Cisco 7500 ゲートウェイルーターを Sprint 側のゲートウェイに接続し、各地の国内ルーターをそこへつなぐ構成だという。機器には Cisco 7505 または2511のルーター、Sun Sparc サーバー、64台の Microcom モデムが挙げられた。これは事業者によるネットワークの技術説明であって、利用者一人ひとりの実効速度の測定値ではない。計画された国内ルーターがすべて稼働済みだったかも、この記録だけではわからない。

この構成は、それまでの分散したメール接続とは異なる。国内ゲートウェイは、国際トランジット、国内接続、利用者認証、課金の明確な接点となり、一つの事業者がフル IP サービスを運用しやすくする。同時に、アクセス経路も集中する。国際トラフィックは、通信事業者が容量、接続、利用条件を管理する設備を通る。「ゲートウェイ」はルーターの名称であると同時に、運用上の決定を実行できる場所でもある。

一般向けサービスの開始は別の日

経路記録と12月の説明より前の1996年8月、Adam は AFRIK-IT メーリングリストに、国営通信当局が Sprint と協力してエチオピアをインターネットにつなぐ準備をしていると投稿した。また、既存のスタートアップ・ネットワークには停止を求めたとも記した。彼は競争にとって悪い兆候だと受け止めている。アーカイブに残るのは当事者の同時代の説明であり、正式な命令文でも当局側の記録でもない。この限定は必要だが、初期ネットワークの構築者が新しいゲートウェイを制度的な変化として見ていたことは伝わる。

NSRC が保存する1997年1月3日の Reuters 報道は、顧客向けの節目を記録する。エチオピアが国内初のインターネットサービスを導入し、5,000人の利用者を収容できると報じた。エチオピア・インターネット局の責任者は、政府機関、NGO、個人で異なる登録料と利用料を示した。報道によれば、それ以前は国外のサービス事業者に高額な電話をかけてアクセスしていた。12月の Gashaw の回答には「5時間で25ドル」という料金があるが、保存文面では課金期間が明確でない。また64 kb/s、3,000ドルの従量サービスはすぐには提供できないと記されている。料金は提供条件を示すが、5,000人が実際に契約したことを意味しない。収容能力と加入者数は別だ。

Ethio telecom の沿革ページはインターネットサービスの開始を1997年としている。ITU の事後調査は ETC のサービスを同年1月の開始と記す。年と月を裏づける記述だが、それ以前の技術上の節目を消すものではない。

ゲートウェイが変えたもの

エチオピアがある日に「インターネットなし」から「インターネットあり」へ移ったと書くのは正確ではない。大学メール、FidoNet、PADISNet は、すでに地域の利用者を国外の人々や情報につないでいた。しかし、それらを Gashaw が説明した TCP/IP サービスと同一視するのも誤りだ。利用体験、ルーティング、利用できるアプリケーションが異なっていた。確実に言えるのは、国営事業者がフル IP の国際ゲートウェイを導入し、ワシントン経由の256 kb/s回線を説明し、その後、料金区分のある国内サービスを発表したことだ。

技術的な詳細が制度上の意味を持つ理由も、この順序から見える。ゲートウェイは経路を一か所に集め、上流容量の購入、国内地点の接続、顧客の識別、価格設定を事業者のもとに置く。以前のネットワークは、少人数の集団がモデム、電話、メールの待ち行列、地域の技術知識を調整していた。新しいサービスは利用の範囲を広げる一方で、国際出口を管理する主体を絞った可能性がある。アーカイブだけでは、メール利用者のうち何人が IP に移ったか、国内ルーターがいつ全面稼働したか、閉鎖要請が実施されたかは判定できない。

最初の ping は単なる試験ではなく、すべてでもなかった。経路を可視化し、12月の説明はその経路が国内ゲートウェイに接続された仕組みを示し、1月の発表は顧客が購入できるサービスになったことを伝えた。記録同士の差に、エチオピアでインターネットが始まった過程の最も堅実な説明がある。地域が運営するメール網から、ルーティングされ、料金が定まり、中央の事業者が運用する接続への移行である。

出典:1996年 traceroute、1996年8月の投稿、12月の事業者説明、1997年1月の Reuters 報道、AAU プロジェクト報告。 関連記録:NSRC のエチオピア・アーカイブ索引、Lishan Adam による1995年5月の FidoNet 状況報告。