要約

  • 「豪州がインターネットに接続した」という表現は、先行する研究メール網、1989年6月のメルボルン–ハワイ間TCP/IP通信、国際回線、そして後年のAARNet全国展開という複数の節目を一つにまとめてしまう。
  • メルボルン大学は最初の接続を2,400 bpsと記し、AARNetの記念史は56 Kbpsの衛星回線とする。両者が同じ層を測ったかは史料に書かれておらず、差は未解決のままだ。
  • この回線によってメルボルンでは稼働するTCP/IP経路ができた。それ以前に豪州のネットワークが存在しなかったわけでも、全機関や家庭が一夜にしてオンラインになったわけでもない。

一つの始まりに二つの速度

毎秒2,400ビットと毎秒56キロビットは、同じ測定値だと考えれば両立しないように見える。経路の別の地点を指している可能性はある。しかし、確認した史料はその説明を裏づけていない。数字はそれぞれ、記した出典と結びつけたまま扱う必要がある。

メルボルン大学の計算機史ページによると、豪州に到達した最初のTCP/IPインターネット接続は、1989年6月22日にハワイから同大学へ開かれた。豪州では6月23日に当たる。作業を行ったのはRobert Elzで、最初に豪州へ届いたメッセージの件名は「Link Up」、接続速度は2,400 bpsだったという。

AARNetが20周年に合わせて委嘱した記念史は、メルボルン–ハワイ間を56 Kbpsの衛星回線として描き、ElzとTorben Nielsenが接続を実現したとする。1999年の『The Age』の記念記事も、64 Kbpsの回線から切り出した56 Kbpsのストリームを記し、両端を同期させる技術上の作業に触れている。Geoff Hustonが1996年にAPNICで発表した資料にも、メルボルン–ハワイ間の56 Kbps回線が載っている。

大筋では一致している。1989年6月、稼働する国際インターネット経路がメルボルンに届いた。だが、その節目に付く速度は一致しない。衛星回線の公称容量、ホストが観測した接続速度、アプリケーションが実際に使えた速度は別の測定対象だ。この違いが差を説明するかもしれないが、どの資料もそう断定していない。大学のページは測定点を示さず、56 Kbpsの回顧資料は2,400 bpsに触れない。最終値を一つ選ぶ根拠はない。

日付にも範囲が要る。メルボルン大学は、ハワイの6月22日が豪州では6月23日だったと説明する。『The Age』は豪州時間の6月23日から24日にかけて接続が成立したと記す。時差をまたぐ接続なら両方の表記は共存できるが、回線やセッションの各段階の正確な時刻までは決まらない。

TCP/IP回線より前から通信はあった

1989年は豪州のインターネット接続にとって大きな転換点だ。しかし、豪州のコンピュータネットワークが始まった年ではない。

National Film and Sound Archiveの「Australia Dials Up」は、大学・研究機関のネットワークを1970年代までさかのぼる。計算機科学の各部門は電話回線でファイルやメッセージを交換し、その後ACSnetが豪州内のUnixホストを結んだ。同アーカイブは、1980年代初めにはARPANETへの豪州発の常設メール接続があったとしている。こうした経路も研究の役に立ったが、接続の経路やタイミングは常時利用できるTCP/IP回線とは異なった。

ANUが1993年に発表した記録は、ACSnetをBITNET、JANET、EARNと並べ、研究者を結ぶ国別ネットワークの一つとしている。1980年代末にはAARNetが豪州の大学や研究機関に専門的に運用されたアクセスを提供し、インターネット経由で海外ネットワークと接続していたという。ここには移行の姿がある。ネットワークサービスはすでにあり、AARNetはより継続的な国際経路を加えた。

1992年のAustralian Unix Users GroupによるACSnet調査は、その重なりを同時代の資料で示している。多数の豪州Unixホストを結ぶネットワークとしてACSnetを紹介し、AARNet、インターネット、Usenet、CSnet、その他の海外ネットワークとの接続を挙げる。AARNetの設立後もACSnetが商用サイトで利用できたとも記している。これは各ネットワークの機能が同じだったという意味ではない。新しい回線の開通で旧システムがただちに消えたわけではない、という証拠だ。

だから「インターネット」という語には範囲を添える必要がある。メルボルン–ハワイ接続より前、豪州の研究者は別のプロトコルや定期的な通信経路を通じて、ローカルホストの外へメッセージやファイルを送っていた。1989年の変化は、国際インターネットへのTCP/IP接続が稼働したことだ。この技術的な範囲を明記すれば「最初」と呼べる。豪州初のネットワークや初の電子通信と呼ぶことはできない。

ホスト、メッセージ、回線

「Link Up」という件名は象徴としてよくできている一方、証拠としては限られている。メルボルン大学のページはその二語を挙げる。『The Age』の記事は、最初のメッセージが「Link up …」だった可能性が高いと記す。どちらも後年に公表された大学・報道機関の記録であり、すべてのパケット、経路変更、回線試験の完全な記録ではない。

メルボルンは現実的な接続点だった。同大学の沿革は計算機部門と、豪州のネットワークや名前解決に関わっていたRobert Elzの仕事を挙げる。AARNetの機関史も最初の接続をメルボルンに置き、ハワイとの直接接続に触れる。既存ホスト、技術者、国際研究者のつながりが交わる地点だったことは読み取れるが、一人の功績に還元することはできない。

二つのホスト間でTCP/IPが動いた時点で、全国バックボーンまでできていたわけではない。AARNetの現在の沿革は、インターネット回線がその後、州都とキャンベラのAustralian National Universityへ延びたとする。Roger Clarkeの歴史では、大学とCSIROへの全体展開は1990年4〜5月、4週間にわたって行われた。AARNetの20周年史も、1989年の太平洋横断回線と、その後の全国ネットワーク実装を分けて記す。

「接続済み」の意味は、そこでも変わる。まずメルボルンに国際経路が届き、別の機関はバックボーンの建設・運用とローカルネットワークの接続を経て後から加わった。1989年6月という日付だけから、当時すべての大学、企業、家庭がインターネットを利用できたとはいえない。

常時利用できる接続は、通信の時間感覚も変えた。メルボルン大学のページで、研究者Lee Naishは、常設接続の前は連絡したい相手と同時にオンラインになることがめったになかったと回想する。利用可能な経路が常にあれば、その制約は使える人にとって小さくなる。しかし、大容量、全国一律の提供、すべてのサービスの双方向性まで保証したわけではない。メールとUsenetは引き続き重要な共有手段だった。

「最初」は対象を明記する

日付は歴史を見渡す手がかりになる。出来事の範囲が書かれていなければ、複数の節目を一つの起源にしてしまう。豪州の記録からは、少なくとも次の問いを分けられる。

  • 豪州の研究者はいつからメッセージを交換したのか。電話回線、UUCP、ACSnetの経路まで記録をたどれる。
  • 国際インターネットから豪州の大学にTCP/IP接続が届いたのはいつか。メルボルン大学は1989年6月のメルボルン–ハワイ間セッションを挙げる。
  • 最初の国際回線はどの容量だったのか。回顧資料は56 Kbps、大学ページは最初の接続を2,400 bpsとする。公開史料は差を解決していない。
  • 大学やCSIROを結ぶ全国研究網はいつ整ったのか。AARNetの展開は1990年だった。

答えは関連していても同じ状態ではない。メッセージ経路は常設回線より前に成立し得る。TCP/IPパケットを交換するホストがあっても、多くの機関がバックボーンの外にいることはある。全国研究網が動いていても、一般家庭向けの小売サービスが広く提供されているとは限らない。こうした状態を分けておけば、後から証拠を使いやすい。

証拠の種類も区別したい。記念ページは節目を残せるが、動いていたものと時刻を確かめるには元のメッセージや技術ログが役立つ。メルボルン大学の沿革は1989年の常設接続を記録したメールの抜粋を示し、1999年の記事も当事者の回想を出典としている。それでも、公開資料から速度差は解決できない。より完全な記録が見つかれば答えが出るかもしれない。断定的な書き換えだけでは出ない。

正確な要約は「1989年より前の豪州にはネットワークがなかった」でも「一夜にして全国がオンラインになった」でもない。豪州の研究ネットワークが何年も先行する中、1989年6月にメルボルンがハワイとのTCP/IP接続を得て、AARNetはその後に全国へ広がった。「最初」は、どの層の話かを示して初めて役に立つ。

出典と証拠の限界

機関資料と出来事に近い資料には、AARNetの沿革、メルボルン大学の初期インターネット史、Australian Unix Users Groupによる1992年のACSnet調査、ANUが1993年に出した「Revolution in Research」がある。回顧資料はAARNetの20周年記念史、Geoff Hustonによる1996年のAPNIC発表、Jenny Sinclairが1999年に『The Age』へ寄稿しRoger Clarkeが保存した記事、National Film and Sound Archiveの「Australia Dials Up」、Roger ClarkeのAARNet展開史などだ。

これらの資料は一連の展開と、それぞれが公表した速度を裏づける。1989年の回線ログ全体や、2,400 bpsと56 Kbpsが同じ対象を測ったかどうかまでは示していない。最初の回線から通信量、普及率、家庭の利用可能性を推定してはいない。