Summary
- 1992年8月、UWIモナ校のメールはプエルトリコへの1日1~2回の接続と、キャンパス内で手作業で配る人に依存していた。
- 1994年のJAMNet発表は、64 kb/s衛星回線、UWIの400ホストを結ぶFDDIリング、CASTの別個のIP回線を記録し、従来のダイヤルアップも継続中とした。
メッセージには出発時刻があった
インターネット史は、地図上で線が点灯する瞬間として語られがちだ。ある国が接続され、ゲートウェイが開き、大学がオンラインになる。1992年8月のジャマイカの記録は、より小さなアクセス単位を示す。モナ校を訪れ、コンピューター計画担当のKeith Manisonと話したSam Lanfrancoは、ジャマイカとプエルトリコの回線について、Manisonが1日に1回か2回、プエルトリコのCUNetシステムへ電話をかける方式だとメーリングリストに報告した。メールを送受信したあと、キャンパスの他の人へ自分で届ける必要があった。
これは一大学の運用についての報告で、ジャマイカ全体の通信統計ではない。注目すべきなのは中継の工程である。国際回線はメッセージを運ぶが、それだけでは各受信者のところまで届かない。発呼の時刻、電話をかける担当者、学内での配布もサービスの一部だった。メールボックスは常時応答する端点というより、接続の時刻と人の手渡しを待つキューの一地点だった。
この接続は、米州機構がカリブ海地域の大学を結ぶために支援したCUNetの枠組みにあった。1993年9月、モデムを持つ個人がジャマイカと通信できるかという公開メールの質問に対し、College of Arts, Science and Technology(CAST)のArchie Marshallがジャマイカ側CUNetノードの管理者だと回答された。回答はUUCPリンクでUniversity of Puerto Ricoとその計算施設CRACINへ接続すると説明した。示されたのは大学ノードと担当者であり、一般家庭向けのダイヤルアップサービスではない。制度的な経路が構築されつつあったことは分かるが、どの家庭からも接続できた証拠はない。
二つの大学、二つの経路
1994年8月の発表は、旧メール便を速くしただけの話ではない。OASのRedHUCyTとCUNetの調整役Saul Hahnは、8月15日から64キロビット/秒の衛星回線でジャマイカがNSFNetにつながったと発表した。FDDIリングを介してUWIの400ホストが完全なインターネット接続を得る計画だった。CASTにも直接のIP回線が設けられ、発表によれば多くの学外利用者へ接続を提供できた。
この数値は機関の設備を表す。「400ホスト」はUWIの機器であり、400人や一般加入者の数ではない。二つのキャンパスの役割も同じではなかった。UWIのリングは大学内のホストを結び、CASTの専用回線は学外へ別の経路を開いた。OAS発表からは、実際の利用者数、利用条件、キャンパス外への広がりは分からない。
新しい回線が古い経路を即座に置き換えたわけでもない。Hahnによると、サンフアンのUPRへ向かうCUNetダイヤルアップは引き続き稼働していた。従来の経路は衛星回線と並行していた。「到来の日」にすべての以前の慣行が消えたという物語は記録に合わない。新しいバックボーンと従来の接続手段が共存した。
発表には構築作業の痕跡も残る。ジャマイカ側の調整役、コスタリカの技術者、NSF関係者、Sprintへの謝辞があり、アドレス設定の問題を受けてルーターやモデムを夜通し調整したとある。添付のping試験では14パケットを送り12件が返り、損失率14%、往復時間625~699ミリ秒と報告された。これは構築時に一つの宛先へ行った単発試験であり、継続的な品質測定ではない。接続の発表と、その時点で応答した経路の記録は別の証拠である。
時刻表が教えること
Commonwealth of Learningの2007年報告は、UWIモナ校のプエルトリコ経由ダイヤルアップ電子メールを1991年に始まったとし、後に回線が逼迫したと述べる。この回顧的な開始年は正しいかもしれないが、1992年の同時代記録が確認するのは、その時点で1日1~2回接続し、人がメールを配っていたことだ。両者の証拠の性質を分けておく。
Heng Luのノートは編集上の問いを提供するだけで、ジャマイカの歴史資料ではない。共有インフラの実際の到達範囲を誰が決めていたか。CUNetとプエルトリコ側ノードが国際経路を用意し、UWIの担当者が接続を開始して学内へ配り、キャンパス設備が受信できる範囲を定めていた。1994年には衛星と二つのキャンパスの設備が機関の経路を広げたが、普遍的な利用を示す資料はない。
日々のメール交換からIP接続への移行は、運用面を変えた。接続できるホスト、メッセージの流れ、外部への経路を提供できる機関が変わった。人が決めた時刻表はネットワークの周辺事情ではなく、初期のジャマイカ・ネットワークの動作そのものに含まれていた。
出典
- Sam Lanfranco, “Links to Jamaica,” 1992年8月19日、NSRCアーカイブ。
- Percy van Kanten, “Internet access in Jamaica,” 1993年9月8日、NSRCアーカイブ。
- Saul Hahn, OAS RedHUCyT/CUNet, “Jamaica on Internet,” 1994年8月16日、NSRCアーカイブ。
- Commonwealth of Learning, “Jamaica Connectivity Report 2007,” PDF。1991年という回顧的な日付のみに使用。
- NSRC、ジャマイカ資料のアーカイブ索引。目録の資料名と日付の確認にのみ使用。
- OAS/RedHUCyT、1995年の地域概説。背景資料としてのみ掲げ、追加の事実主張には用いない。
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