要約

  • コトヌー会議は接続の期限を与えたが、初接続の時期は1995年11月と12月の両説がある。
  • OPTのゲートウェイの後に通常サービスと事業者の増加が続いた。事業者数の増加だけでは独立した国際経路の増加を意味しない。

ゲートウェイより先にメールは届いていた

「ベナンは1995年にインターネットへ接続した」と言えば、明快な起点に聞こえる。しかし、そこには異なる段階が重なっている。Ken Lohentoの回顧的な年表によると、1994年から少数のベナン人がBOSSを使い、UUCPで電子メールを交換していた。これは確かな通信手段だったが、蓄積転送型のUUCPメールと、経路制御された常時接続の国内ゲートウェイは同じものではない。したがって1995年を最初の電子メールと呼ぶことはできず、ゲートウェイの稼働も全員の接続を意味しない。

問うべきなのは、国際インターネット経路がいつ運用され、誰が担い、その後何を可能にしたかだ。資料は郵便電気通信公社(OPT)と、外交行事に合わせて準備された接続を示している。

首脳会議がインフラに期限を与えた

1995年、コトヌーで第6回フランコフォニー首脳会議が開かれた。Annie Lenoble-BartとAndré-Jean Tudesqの歴史研究は、OPTの初接続を会議期間中の11月とする。Lohentoの後年の記述では12月の会議に間に合う形でゲートウェイが稼働し、国連掲載のベナン国家報告も12月と記す。正確な開通日を決める証拠はなく、「1995年末」が妥当な表現だ。

首脳会議は運用上の期限を説明するが、外交行事だけが接続の原因だったと証明するものではない。国際会議には政府関係者、記者、運営担当者が集まり、国外との通信が必要になるため、特定の日までに経路を用意する実務上の理由が生まれる。LohentoはFrance Câbles et Radio経由の回線に触れる一方、初期容量について資料は一致しない。彼の記述は64 kbit/s、国連掲載報告は1 Mbit/sとしている。測定地点や段階が異なる可能性はあるものの、資料は差を解消していない。ここではどちらかを確定値として採らない。

会議に合わせた接続と、通常の顧客向けサービスも別の節目だった。LohentoとThéophile Vittinの1999年報告は、ともにOPTの定常的なインターネットサービスを1996年2月開始とする。行事中に経路を使えることから通常の顧客対応へ移るには、運用、課金、支援、接続方法を整えなければならない。「接続済み」は技術状態を示し、「サービス提供」は組織の体制を示す。

行事の後もゲートウェイは残った

事業者やアクセス拠点が増えても、OPTの役割は消えなかった。NSRCの接続事業者データベースに収録されたPierre Dandjinouの2001年回答は、OPTが1995年に外部ゲートウェイを設け、その後も主要なゲートウェイであり、民間ISPがOPT系回線を使っていたと述べる。これは2001年時点のスナップショットで、1995年の完全なネットワーク図ではない。それでも、小売事業者の数だけで競争を測れない理由を示す。ブランドが増えても、世界のインターネットへ出る独立経路が増えるとは限らない。

Vittinの1999年報告は、加入者や事業者、サイバーカフェの拡大を記し、コトヌー以外のサービスにも触れる。ただし数値はその報告の行政的推計で、接続者全員の調査ではない。ITUの国別報告は1999年5月末時点で加入者1,537、ISP 4社とし、Vittinの後年の数字とは食い違う。時点が異なり、定義も比較可能な形で示されていない。さらにサイバーカフェでは一つの契約を複数人が共有するため、契約数を利用者数と同一視できない。確認できるのは拡大であり、統一された全国普及率ではない。

OPTの中心性にも境界を設ける必要がある。資料が示すのは国際ゲートウェイとOPT系回線への依存だ。すべてのISP、地域アクセス拠点、個人接続をOPTが運営したことや、期間中に別経路が一度もなかったことまでは証明しない。障害頻度や料金も明らかでない。国家の経路が中心であることと、ネットワーク全体がその経路だけであることは違う。

この歴史は「会議の後にインターネット」ではなく、UUCPメール、1995年末のゲートウェイ、1996年2月の通常サービス、共有アクセスと事業者の増加、そして集中した上流構造という段階をたどる。Heng Luの「稼働しているシステムを重視する」というノートは編集上の視点にとどまり、ベナンについての証拠ではない。発表された接続、稼働中のゲートウェイ、日常サービス、個人が実際に使えるアクセスは別の事実である。コトヌーで一つの節目が見え、OPTの継続的な役割がその後の形を左右した。

Sources