要約

  • 1993年に始まったBELNETの最初のネットワークに先立ち、大学関係者と科学政策担当者は、EARNとEUnetの利用者が移行できる単一の全国網をつくる方針を決めたと後年の証言は伝える。
  • その方針と初期の64 kbit/s接続は、全ホストやサービスの移行完了を証明しない。RIPEの1993年11月の一覧には、BelnetとEUnet BEが別々のプロバイダーとして残っている。

インフラより先に必要だった合意

1993年11月、RIPE Network Coordination Centreの地域レジストリー草案には、ベルギーのプロバイダーとしてBelnetとEUnet BEの二者が掲載されていた。レジストリーの項目が示すのは登録上の役割であり、二つの大学間でパケットが通った物理経路ではない。機器を共有したか、トラフィックを交換したか、同じバックボーンを使ったかまでは分からない。それでも、後年の組織史を同時代の記録と照らす手がかりになる。

Belnetの2008年年次報告書は、ネットワーク設立前の経緯を振り返っている。ナミュールの名誉教授フィリップ・ファン・バステラールは、当時のネットワークが分断され、大学の中でもEARNとEUnetの支持者が別れていたと証言した。非公式の専門家会合では、既存の二つのネットワークが移行する単一の新網を設けることで合意したという。その後、ピエール・ブリュイエールのもと、大学関係者と連邦科学政策局の職員からなる作業部会が正式な専門家グループを設け、将来網の構成と伝送容量を検討することになった。

これは設計方針についての回顧証言である。会合の日付、移行日程、実際に切り替わったシステムの一覧は示されていない。RIPEの一覧は別の事実を記録している。1993年11月時点でBelnetとEUnet BEは、プロバイダーとして別々に載っていた。両者は矛盾するとは限らない。共通の研究バックボーンが準備中、あるいは稼働している間も、EUnetが一部の利用者やサービスを別に運営し続けた可能性はある。資料だけではネットワーク層の重なり方までは確定できない。

二つの利用者層と、その間のメール

両ネットワークには異なる組織と計算環境があった。ルーヴェン・カトリック大学が1999年に掲載したインタビューで、ピエール・フェルバーテン教授は、ベルギーのEUnetが同大学の計算機科学科から運営され、Unixシステムを中心としていたと語る。ヘルマン・ファン・アイトフェンは、EARN/Bitnetを大型IBMメインフレームのネットワークと説明し、ルーヴェンの計算センターがベルギー側の中心だったと振り返った。二人は電子メール、ファイル交換、大学での利用にも触れている。

同じインタビューは、完全な断絶という説明も退ける。フェルバーテンによると、EUnetベルギーはEUnetとEARN/Bitnetの間でメールをやり取りする役割を担った。サービスの一つが境界を越えても、ネットワーク全体が一つの運用系になるわけではない。利用者がメールを交換する一方で、大学は異なるホスト、回線、管理体制、将来像を保てる。

Belnetの沿革はこの事業を1989年開始の科学政策部門「Information Technologies Impulse」計画にも結び付ける。計画の一つの目的はベルギー研究者によるスーパーコンピューター利用を促進すること。別の柱では、遠隔地からそれらの計算機へアクセスするネットワークを構想した。したがって全国網の建設は、「国内初のインターネット接続」を競うだけでなく、研究計算の政策的基盤づくりでもあった。

64 kbit/sという数字の射程

Belnetは最初のネットワークを1993年のものと説明する。2008年の年報によれば、初期顧客は64 kbit/sで相互接続された。2023年の30周年資料は、創設時に職員が3人、接続機関が27、容量が64 kbit/sだったとする。これらは初期規模の参考値だが、全国の家庭向けサービス、全大学の均等なアクセス、実際のトラフィック量、独立した性能測定までは示さない。

ルーヴェンの回顧には、より具体的な移行の記述もある。1990年以降、ベルギーの複数大学が同大学経由でインターネットへ接続し、1993年のBelnet設立時に国内・国際回線がルーヴェンからブリュッセルへ移ったという。これは特定の回線移転に関する関係者の記憶であり、EARNとEUnetの全サービスが同じ経路をたどった証明ではない。

1996~97年のベルギー法学論文は後に、Belnetが管理するブリュッセルの相互接続ルーターを記述し、ピアリングによって国内トラフィックの国際迂回を避けられると説明した。この時期には、研究ネットワークとプロバイダー間の相互接続は結び付いていても、別々の仕事だった。この後年の説明を1993年の正確なトポロジー図と見なすべきではない。共通の運営者が、全プロバイダーを吸収せずに接点となり得たことを示す資料ではある。

合意と移行完了を分ける

BELNETの起源には、分断を共通設計と移行経路に置き換えようとした共同作業がある。しかし、その決定だけで従来のネットワークがすぐ消えたとは資料は示していない。RIPEの二つの項目は、異なる証拠の層を分けるために役立つ。共通網をつくる決定は後年の証言に基づく。1993年11月の登録は当時のスナップショットであり、RIPE自身が網羅的ではないと断っている。

確実に言えるのは限定的だ。ベルギーの組織は、以前のシステムを受け入れる共通の研究ネットワーク層をつくり始めた。一方、プロバイダー登録には複数性が残っている。その記録だけでは、特定の大学が移行済みだったのか、EUnetサービスを残したのか、両方を使ったのかは判別できない。

委員会が構成に合意しても、運用者は回線、ホスト、経路、利用者を移さなければならない。ベルギーの事例では、合意はネットワーク史の一部だが、移行完了の証拠ではない。

出典