要約

  • 1996年のLelandとルワンダ政府の計画はRwandatelに将来のゲートウェイを置く構想だった。当時のメールは、サーバー設置、職員研修、サービス開始の準備が続いていたことを示す。
  • ルワンダ国立大学とKISTへのLeland資金によるVSAT設置は1999年とされるが、世界銀行は両校のインターネットサービス提供開始を2001年と記録する。大学のサービスをより早く記す別の資料もあるため、キャンパス接続と公式商用ISPの地位は区別しなければならない。

最初に残ったのは空白の記録だった

1996年1月、国連の通信報告は、ルワンダには全国向けの公的な電子メールまたはインターネット事業者が存在しないと記した。国際機関は本部へ電話するなど、即席の手段でメールを交換していた。国連の衛星回線が使える場所でも、データ通信の品質は低く、接続に成功することはまれだった。この報告が扱うのは全国向け公共サービスである。閉じたネットワークや国際機関のネットワークがすべて切断されていた、という意味ではない。

公共インターネットより前から、ネットワーク上の連絡先はあった。1993年1月、ルワンダへの連絡方法を尋ねる投稿への保存メールは、キガリのFidoNet連絡先を示し、「これはインターネット接続ではない」と明記した。1995年のキガリのノードに関するやり取りでは、予定されていたシステム管理者からまだ連絡がなく、ノードの準備状況も確かでないとされた。モデムでメールをやり取りできても、インターネット上の宛先へIPパケットを送れるとは限らない。両者を一つの節目にまとめると、証拠より早い接続史になってしまう。

必要だったのは国際回線だけではない。国際線があっても、ゲートウェイ、国内ダイヤルアップ、運用訓練、一般利用者向けの提供方法がなければ、その容量を利用できるサービスにはならない。ルワンダの記録は、それぞれを別の工程として示している。

ゲートウェイ計画の発表後も設置は続いていた

1996年9月6日、UNICEFの関係者は国営電話会社Rwandatelがインターネットサーバーを設置中だと報告した。手順は二段階で、まず米国との衛星回線を用意し、続いてサーバーと保守要員の訓練を整えるという。国際回線は稼働しているとされたが、当時は音声通話に使われ、インターネットサービスの準備が続いていた。当初の目標日は遅れていた。同じメールによれば、国連機関やNGOのメールは限定されたサービスで、本部への電話を一日に三~五回行っていた。

10月1日付の現地報告は、Leland Initiativeとルワンダ政府が覚書を交わした直後だと伝えた。技術設定、電話会社職員のゲートウェイ運用訓練、ISP候補への説明を四か月で進める計画だった。報告では、Rwandatelが米国まで持つ2メガビット毎秒の回線を、地元のサービス事業者のハブにする構想だった。筆者は、数人をカンパラへのダイヤルアップに設定した一方、訪問先の団体は予定された活動を始める準備ができていなかったとも書いている。

これは想定された運用形態であり、独立した開通検査の記録ではない。報告によれば、Rwandatelは小売サービスから退き、国際ハブに専念するはずだった。その記述だけでは、計画が予定どおり実施されたことも、その後に競争市場が生まれたことも証明できない。1996年11月、地域トップレベルドメインの管理者は、当時ザイール、ルワンダ、ブルンジに常時オンラインのサイトはなく、ベルギーとザイールを結ぶ唯一の試験回線も不安定だと書いた。これは三か国のホストとDNSの継続的な利用可能性に関する記録であり、ルワンダ全体の接続を測ったものではない。それでも、10月の計画を完成済みの公共サービスと読むべきではないことを示す。

ISPの開始と市場開放は別の出来事だった

世界銀行の2006年eRwandaプロジェクト評価は、有用な区分を示す。ルワンダ初のISPは1997年に国営電話会社Rwandatelが開始し、2000年末まで公式な商用ISPは同社だけだったという。その次に、ルワンダ国立大学(NUR)とKigali Institute of Science and Technology(KIST)が2001年初めにインターネットサービスの提供を開始したと記す。両校の国際帯域は、USAIDのLeland Initiativeで設置されたVSATアンテナを使っていた。

これは複数の異なる主張である。最初のISPが存在したこと、運営者が国営電話会社だったこと、2000年末まで他社に公式商用ISPの地位がなかったこと、そしてその後に大学がサービスを提供したこと。最初の事業者のサービスと大学の提供開始の間にある時間差は重要だ。ネットワークの到着、商業競争、キャンパスがサービス提供者になることを分けるからである。

大学をめぐる時系列はさらに複雑だ。IDRCが2005年に刊行した『At the Crossroads: ICT Policy Making in East Africa』の章は、NURが1999年初めにサーバー、ルーター、モデムを受け取ったものの、Rwandatelの専用線を二か月待ったと記す。承認が下りた時点でISPの月額料金は2,500米ドルだったという。章はさらに、NURとKISTが1999年9月にLelandのVSAT寄贈を受けた一方、設置許可の取得には政府上層部の介入が必要だったと報告する。その後、大学はダイヤルアップと無線で遠隔利用者にインターネットを提供し始めた、とも書いている。

ところが、2006年の世界銀行評価はNURとKISTのインターネットサービス提供を2001年初めに位置づけている。両資料は「サービス提供」の意味が異なるか、大学が機材・キャンパス接続から外部利用者向けの提供に移った時期を別々に記している。入手できた記録だけでは食い違いを解消できない。1999年9月を公共ISPの確定した開始日として示すのも、2001年という記述を省くのも正確ではない。限定的に言えるのは、2005年の章が機材とVSAT能力を1999年に置き、世界銀行評価が大学サービスを2001年に置いていることだ。

1999年10月のネットワーク技術者のメールは、留保付きの技術情報を補う。Mark Elkinsは、キガリへの128キロビット毎秒の回線が衛星経由で米国に接続し、首都のダイヤルアップ拠点にはおよそ32~48台のモデムがあったと説明した。キガリからButareの大学までは4線式モデムを用いるアナログ回線があったという。ただし大学回線は「64 Kbかもしれない」、大学にVSATがあるとも「聞いた」と記す。これは一人の設置担当者による技術スナップショットで、全国の設備台帳ではない。不確実性の表現も記録の一部である。

日付を分けて読めば分かること

資料を合わせると、単一の「到着日」ではなく、段階が見えてくる。1996年1月、国連報告は全国向け公共サービスがないと記した。9月にはRwandatelがサーバー設置と職員訓練を進めていた。10月の報告にはLelandのゲートウェイ構想と四か月の予定が記録された。世界銀行はRwandatelのISP開始を1997年、唯一の公式商用ISPだった期間を2000年末までとする。2005年の事例研究は大学機材、専用線の待ち時間、高額料金、1999年のVSAT寄贈を記し、後の世界銀行報告は大学サービスを2001年に置く。1999年の設置担当者の記録には設備の説明があるが、大学に関する一部は推測として書かれている。

ここでいう「ルワンダがインターネットにつながった」には、少なくとも四つの意味がありうる。最初のインターネット事業者、電話会社に設置された国際容量、大学構内をつなぐ回線、あるいは他の利用者にサービスを提供する認可と機材である。資料はこれらに共通の日付を与えていない。衛星アンテナや発表されたゲートウェイだけでは、稼働する国内経路、免許、手頃な小売アクセスの証明にならない。

費用についても、射程を限らなければならない。一つの記述はNURに月2,500米ドルの料金が提示されたとし、大学VSATの許可問題を記録する。これは同校で報告された費用と許可上の障害の証拠であり、全国料金の調査ではない。2メガビット毎秒の国際回線や数十台のモデムも、容量と設備を示すにすぎず、接続成功数、利用者体験、人口カバー率は分からない。

この区別は歴史家だけの注意点ではない。国際容量があっても、国内回線、訓練を受けた運用者、規制承認、小売を行う判断が欠ければサービス開始は遅れる。1996年から2001年までのルワンダの記録は、こうした依存関係を見えるようにする。大切な節目は衛星信号が届いた時ではなく、特定の機関が、想定する利用者にサービスを届けられる取り決めのもとで、実際に使える経路を得た時である。

出典