要約

  • チェコスロバキアはIP接続より先にEARN/BITNETの学術サービスを利用していた。両者は連続しているが、同じネットワークではない。
  • 1992年初め、プラハ―リンツ間の回線は9.6 kb/sから総計19.2 kb/sへ増強され、EARN用とInternet用の独立した二つのチャネルに分けられた。
  • Gruntorádの役割は、政治的許可、大学の運用、国外の接続先、公式承認、国家予算、国内バックボーンという別々の決定を順番につなぐことだった。

「いつInternetにつながったのか」という問いの弱点

記念日は理解しやすい。チェコスロバキアの場合、1992年2月13日が公式接続の日とされる。プラハのチェコ工科大学で開通行事があり、Gruntorádの率いるチームが接続を担った。しかし、その日を境に完全な未接続から全国接続へ切り替わったわけではない。

その前にはEARNがあった。1991年末にはオーストリアのリンツ大学を経由した実験的なInternet接続もあった。その後には、全国の大学都市へ接続を配るCESNETの建設が残っていた。したがって問うべきなのは日付だけではなく、その日までに何が可能になり、誰が責任を引き受け、次にどの資源が動いたかである。

Gruntorádの仕事は、複数の「最初」を一つに見せることではなかった。それぞれの未完成な状態を、次の決定に耐える証拠へ変えることだった。

政治的に許されない接続

彼の後年の回想によれば、1980年代末にデンマークへ研究滞在した際、学会参加者が端末から電子メールを送る光景を目にした。自分にもアドレスが欲しいと尋ねると、チェコスロバキアには通信相手がいないので意味がないと言われたという。

帰国後、大学からEARNへ接続を申請するよう働きかけた。CESNETが公表した人物紹介には、政治的規制のため接続できないという丁重な返答を受けた、と記されている。公開資料には当時の原書簡が含まれないため、これは回想として扱う必要がある。それでも、障壁の所在は示される。技術者が機器を扱えることと、国際データ回線を開く権限があることは別だった。

1989年11月のビロード革命がその条件を変えた。だが政治変動はケーブルを運用してくれない。1990年、GruntorádはEARNの初代国内責任者となり、チェコスロバキアでの組織と基盤づくりを進めた。CESNETの年表では、同年にEARNを通じて米国の大学ネットワークBITNETへ接続したとされる。許可の獲得は出発点であり、サービスの完成ではなかった。

EARNがあったからこそ、別のチャネルが必要だった

1991年、チェコ工科大学の計算センターにあるIBMメインフレームが9.6 kb/sでEARNへ接続された。利用範囲は局所的だったが、世界規模の学術ネットワーク基盤に触れる最初の機会になった。

EARNはBITNETの欧州側ネットワークで、電子メールや蓄積転送型のサービスを提供した。それは実用的であり、単なる失敗作ではない。一方、IPによるエンドツーエンド通信とは運用方式が異なる。CESNETの回顧では、EARN時代のメールやTrickleサーバーを介した利用と、その後の完全なエンドツーエンド接続が区別されている。

1991年末、リンツ大学のEARNノードとの関係を足場に、Internet接続が試験された。資料には11月とするもの、12月に接続成立とするものがある。実験の開始、安定通信、受け入れを別々に記した可能性があり、特定の日を作るべきではない。重要なのは、EARNが物理的・制度的な橋を提供し、その橋の上でIPが別途試されたことである。

19.2 kb/sを半分ずつ使う

1992年初め、国際経路は従来の倍に増強され、二つの独立チャネルへ分割された。一方はEARNを継続し、他方はInternetに割り当てられた。公式接続は総計19.2 kb/sと説明され、半分ずつが二つのネットワークを運んだ。

これは旧式を即座に捨てる移行ではない。EARNの利用者には継続が必要だった。新しいIPサービスには、余り物ではない固有の容量が必要だった。二つのチャネルに分けることで、双方の障害、利用量、責任範囲を識別できる。共存は曖昧さではなく、移行を観測可能にする設計だった。

しかも回線は高価だった。Gruntorádは、1992年の月額が17万4000チェコスロバキア・コルナ、平均月給が約4000コルナだったと後に振り返っている。これは監査済み料金表ではなく回想だが、容量配分の重みは伝わる。Internetへ半分を与えるとは、大学が新しい運用モデルに実費と責任を割り当てることだった。

公式行事が予算を動かすまで

2月13日の式典が変えたのは、接続の社会的身分である。少人数の技術実験が、大学と国家が公に認めるサービスになった。より大きな国内ネットワークを求める際、技術者は抽象的な将来像ではなく、実際に動く国際接続を示せるようになった。

全国学術網の構想は1991年から存在した。CESNETの記録によれば、社会変革の只中にあった行政にとって、未知のネットワークへ大規模投資する意味は容易に見えなかった。公式開通の四か月後、教育当局は2000万コルナを拠出した。要求額2600万には届かなかったが、建設開始には足りた。

式典を技術史の終点と見ると、この予算効果を見落とす。式典は、実験の証拠を国家事業の根拠へ翻訳する場だった。

国境の一点から国内十都市へ

1993年6月15日、チェコ工科大学は全国学術ネットワークCESNETの運用を開始した。連邦国家はすでに分離していた。ネットワークはボヘミアとモラヴィアの大学十都市を結び、プラハ―ブルノ幹線は64 kb/s、他の初期回線は19.2 kb/s規模だった。

Internet Hall of Fameは、CESNETをIPベースとする決定をGruntorádが主導したとする。意義は速度以上に構造にある。一つの国際接続点を、国内の研究教育機関が共有できる配送網へ変えたのである。

同名の組織はまだ存在しなかった。1993年のCESNETはチェコ工科大学が運用するネットワークで、CESNET協会が設立され運用を引き継ぐのは1996年である。プロジェクトが先に価値を示し、後から永続的な制度の器を得た。

初期のCESNETは国内でInternetへ出るほぼ唯一の経路だった。やがて余剰容量が商用にも提供され、民間利用へ道が開いた。一般市場は当初目的ではない。学術向けに整備された運用能力が、別の利用者を受け入れられるほど安定した結果だった。

発明者ではなく、境界を越える調整者

「チェコInternetの父」という呼称は記憶には残るが、分業を見えにくくする。チェコ工科大学、リンツ大学、EARN、IBM、回線提供者、教育当局、多数の技術者がそれぞれ必要な決定を握っていた。Gruntorád一人が全体を所有したわけではない。

彼が繰り返したのは、次の境界を特定することだった。政治的拒否の後には国内EARN組織をつくり、EARN接続の後にはIPを試し、実験の後には独立容量を確保し、公式承認の後には全国建設費を得た。後年のNIX.CZやCZ.NICへの関与も、共有機能に制度的な居場所を与える同じ発想につながる。

一本の線が二つのネットワークになった事実は、移行の本質をよく表す。新しい仕組みは、古い仕組みを名前だけで上書きして生まれるのではない。固有の容量、運用者、利用者、予算を持った時に、初めて次の「最初」へ進める。

出典