要約

  • 1990年の提案は世界規模の中央データベースを求めなかった。各サーバーは自分の資料だけを扱い、リンクは機械の境界を越え、利用者は一つの編集環境や文書形式を強制されなかった。
  • 開放は一度の宣言ではなく、仕様の公開、行モードブラウザによる移植、独立実装、そして1993年4月30日のCERNによる基本クライアント、サーバー、共通ライブラリの権利放棄という順序で進んだ。
  • Mosaicや出版社、ネットワーク運用者、のちのW3Cも不可欠だった。CERNの決定が強かったのは、すべてを支配したからではなく、自らが不可欠でなくなる条件を早く整えたからである。

CERNのサービスにとどまる別の未来

別の結末を考えると構造が見える。WebがCERN内部で成功しても、外部のサーバーがCERNのソフトウェアを必要とし、新しい端末がCERNによる移植を待ち、商用利用が個別許可を求めるなら、それは優れた研究所サービスのままである。

技術上の依存は、やがて制度上の権限になる。最初の運用者が、後の参加者にとっても不可欠な運用者になるからだ。

実際のWebは、一度の移管で外へ出たのではない。小さなプロトコル、公開文書、持ち運べるコード、別々に動くサーバー、再利用を許す法的条件、そして所有ではなく相互接続を調整する組織へと、機能を分けながらCERNを離れた。

中心が全体を知らない設計

Berners-LeeとRobert Cailliauの1990年提案が扱ったのは、CERNに散在する報告書、実験データ、職員情報、ヘルプ文書だった。保存場所も検索方法も異なり、一つの情報を見つけても関連資料へ自然には進めなかった。

提案はそれらを一つの倉庫へ移すのではなく、参照を横断させた。サーバーは自分の機械上の資料を管理し、クライアントはリンクから別のサーバーへの接続方法を得る。サーバーは読者がどのページを経由したかも、世界中のサーバー一覧も知らなくてよい。

「しないこと」も明確だった。すべての文書形式を変換せず、一つのワープロやマークアップを強制せず、最初から高度な認証を作らない。まず人が読めるテキスト、単純な要求方式、多くの画面で使える閲覧を優先した。

これは機能不足ではない。地域ごとの差を残したまま、共有すべき最小部分だけを動かす設計だった。

法的公開より前にあった無料の意図

1990年提案は、可能な限りパブリックドメインのソフトウェアを使い、プロジェクトのソフトウェアを誰にでも無償で提供すると書いている。また、利用者はCERNが管理する文書集合を使えるが、そこへ集約される義務はない。

この時点では国境を越えて確実なライセンスではなかった。しかし、成長のモデルは見えていた。CERNの中央サービスへ全員を加入させるのではなく、外部がサーバーを立て、クライアントを書き、リンクを張れる必要があった。

URI、HTML、HTTPの説明も最初のサーバーで公開された。仕様と最初の実装を分離することで、別のチームが互換プログラムを作れる。独立実装が接続して初めて、「誰でも実装できる」という言葉は検証可能になる。

行モードブラウザが開いた出口

最初のWorldWideWebはNeXT上の優れたブラウザ兼エディタだった。しかしNeXTはどの研究者の机にもある機械ではない。

Nicola Pellowの行モードブラウザは、画像中心の体験を捨て、番号付きリンクを多くの端末へ運んだ。CERNはこれを最初の容易に利用できるWebブラウザと位置付け、Berners-Leeはほぼあらゆるコンピュータで動かせたと振り返る。

機能が少ないことが、到達範囲を広げた。以後、すべての機種対応をCERNの仕事にする必要はない。Erwise、Viola、Cello、Mosaicなどが異なる見せ方と配布方法を試し、共通仕様に隠れたCERN固有の前提がないかを実行によって検査した。

1993年4月30日の正確な範囲

CERNの記録によれば、公開対象は基本的な行モードクライアント、基本サーバー、共通コードのライブラリだった。CERNはそれらのソースとバイナリへの権利を放棄し、利用、複製、変更、配布を認めた。

これで大学、企業、個人は個別ライセンスを求めずにコードを使えた。改良を原チームの順番待ちにせず、商用展開後に出生地から使用料を請求される不安も減った。

ただし、すべての将来のブラウザやWeb上の著作物まで自由化したわけではない。ネット接続も自動では得られない。独立展開の種になる特定のCERNソフトウェアから、CERNの門を外したのである。

さらに「パブリックドメイン」は法域ごとに同じ効果を持たなかった。CERNは後に、権利を保持したうえで再利用を明示的に認めるオープンライセンスへ進んだ。善意だけでなく、後継者や各国の法制度に耐える文書が必要だった。

Mosaicは許可を能力へ変えた

ライセンスは自動でコンパイルされず、読者も生まない。NCSAのMosaicはグラフィカルな閲覧、導入、複数プラットフォームへの配布を実務として整えた。NCSAの記録では1993年12月に月5000件以上がダウンロードされ、問い合わせ対応も大きな負担になった。

数字は全利用者の統計ではない。それでも、配布と支援がCERN以外の組織で発生していたことは示す。Mosaicは画像を見せただけでなく、別の組織が共通仕様に基づき製品品質のクライアントを試験し、梱包し、支えられると証明した。

同時に出版社とサイト運営者が内容を増やした。ブラウザが増えればサーバーの価値が上がり、サイトが増えればブラウザの価値が上がる。リンク作成に中央承認は要らなかった。

最初のCERNサーバーの負荷は1991年から1994年の夏まで毎年およそ10倍になったとBerners-Leeは記す。初期のサーバー名簿は不完全で、内容の量や質を測らないため、厳密な世界成長率ではない。ただし、最初のサーバーが全体の容器ではなく、多数の一参加者になったことは分かる。

脱出後の調整

1994年には、実装不足より互換性の分裂が問題になった。MITで始まったW3CはCERNと協力し、DARPAと欧州委員会の支援を受けた。初期文書は、プロトコルと参照実装を開発・試験・普及するベンダー中立の調整役を掲げ、拡張性、後方互換性、平滑な移行を重視した。

これは無力な役割ではない。仕様を整え、競合企業を集め、互換性の破れを明らかにできる。しかし独立したブラウザ、サーバー、ページ、リンクを所有する役割でもなかった。

証拠が支えるのは一つの奇跡ではなく連鎖である。小さな仕様、移植クライアント、法的公開、Mosaic、既存のインターネット、増える内容、W3Cの調整が互いを強めた。各要因の比率は測れない。

CERNが残した最も強いものは、自らがいなくても続く条件だった。自分のコードに対する正当な権利を、普通の実装や公開に不要なものへ変えたのである。

出典と限界