要約

  • 1993年2月の同時代の告知によると、マプトのCIUEMは2,400ボーのダイヤルアップUUCP回線でローズ大学とメールを交換し、そこでインターネットに接続していた。
  • 蓄積転送型のメールサービスは重要だったが、すべての利用者や国内ネットワークが常時接続の対話型IP通信を使えたことを意味しない。後年の記録にはUUCP中継網の拡大とIP経路の双方が現れる一方、「完全なインターネット」の開始時期は回顧資料によって異なる。

1993年2月13日、Network Startup Resource Center(NSRC)は、実務上大きな意味を持つ控えめな告知を出した。CIUEMとはUUCPでメール交換が可能で、経路は帯域の限られた2,400ボーのダイヤルアップ回線だった。マプトの386BSDホストから電話回線でローズ大学へ接続し、そこでインターネットに合流する。告知は大量送信の前に相手と調整するよう求めていた。これは細く高価な経路の運用上の注意であり、常時稼働する国際専用線の証拠ではない。

この区別が重要なのは、後年の歴史が複数の移行を一つの「初のインターネット接続」にまとめがちだからだ。エドゥアルド・モンドラーネ大学の機関史は、モザンビーク初の接続を1992年と回顧し、マプトからローズ大学への最初のメールを1993年2月3日としている。ハーバードのケーススタディも1992年のダイヤルアップ接続に触れるが、速度を9.6キロビットとし、経路と費用について別の説明を記す。これらは先行する別サービスを指す可能性がある。少なくとも、1993年2月の同時代資料が記録する2,400ボーのUUCPメール経路を否定するものではない。資料から両回線の正確な関係は判明しない。

国内接続は、マプトの1台のコンピューターがローズと通信するだけではなかった。1993年11月のネットワーク報告は、モザンビークに少なくとも10のUUCPサイトがあり、「理論上は」dzowo.uem.mzに集約され、さらにローズ大学のkudu.ru.ac.zaからフィードを受けると記している。これは想定された中継構造を示すが、すべてのメッセージが各区間を問題なく通過した証拠ではない。4月にはCIUEMのAmerico Muchangaが、メールの流れが悪く、誰かが使っているときにしかホストは役立たないと報告していた。運用者、正常に動くモデム、完了する一括転送に価値が左右されていた。

1995年5月までに記録は変化する。dzowo.uem.mzへの保存済みtracerouteは、英国から米国と南アフリカのネットワークを経てエドゥアルド・モンドラーネ大学へ至るIPホップを示す。遅延や応答のないホップは単一の診断記録であり、平均性能でも完全な物理経路図でもない。別のNSRC記録は「Mozambique with Full Internet」と題していたが、CIUEMの同月後半の更新には、まだVSATの獲得に取り組んでいるとある。「完全なインターネット」は当時の節目を表す見出しであって、接続上の制約がすべて解消した証拠ではない。

実際の経過は、全国の「初」を一日で表すほど単純ではない。回顧資料が1992年とする接続、1993年に具体的に記録された低速UUCPメール橋、脆弱な国内中継網、そして国際容量の整備が続く中で1995年に見えるIP到達性がある。それぞれの層に異なる制御点と障害要因があった。国内IP網が常時接続でなくても蓄積転送メールは届き得る。tracerouteがIP到達性を示しても、一般利用者に手頃で安定したサービスがあったとは限らない。

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